夏の声



あれから何年たっただろう。
そう、もうひとりのボクが還ってから何年たっただろうか。
僕達はすっかり大人になり、それぞれの道を歩んでいると言えるのかもしれない。もう若くはないけれど、まだまだ人生の途中という感じで悟りきるにはちょっと早い、そんな年齢だ。
でも、いつも心のどこかにはあの頃の自分が残っていて、その事に気づいて胸が痛くなる時がある。

その日、僕はひとりで海馬くんのお見舞いにむかっていた。
童実野町の丘陵部の一角に海馬くんが入院している病院がある。
昔はサナトリウムだったそうで、なるほど辺り一帯に時代から取り残されたような風情が今も漂っている。ゆるやかな坂道の両脇に木々が生い茂っていて、降るような蝉の声はまるで雨のようだ。その坂道をぐるぐると登りきると白い建物が見えてきた。
常日頃、怪物的な体力と気力を誇る海馬くんがこんなに長く入院するなんて珍しい。
今ではすっかりかっこいい青年副社長が板についてきたモクバくんが、あまりにしょぼんとしてるので僕は本当に心配になってしまったんだ。そんなに悪いんだろうかって…
彼にしても、あの彼にしても、なんでそんなに生き急ぐんだろうかってずっと思ってきたから。

最上階のたぶん一番いい病室。ドアの前のプレートを確かめてから静かにノックした。
そういやお見舞いにきたってのに僕はなんで手ぶらできちゃったのかな。せめて花かお菓子でも持ってくるのが常識ってもんなのに…
でも海馬くんはそんな風に見舞われる事を嫌うに違いない。そんな気がした。
ずっと昔、彼を何度か見舞った時にもそう思った事を思い出す。だから、今回もこれでいいんだ、きっと。

返事が無いのでそっとドアを開けて中を覗くと窓際の大きなベッドに海馬くんが眠っている。
点滴をしているようだけど、お医者さんや看護師さんの姿は無く、広い病室はがらんとしていた。
僕は気をつけて音をたてないように部屋に入った。

「遊戯か?」
いきなり声が飛んできて僕は本当に驚いた。
見ると海馬くんが眼を覚まして僕の方を見ている。本当に気配に敏感な人だなぁ。

「…遊戯か」
海馬くんがもう一度言った。
僕気づいてしまった。海馬くんは一瞬僕を彼と間違えたんだって。
でも、二度目に呼んだ時にはもうわかっていたようだ。ここに居るのは僕の方だって事を…

「なんだ元気そうじゃない。良かった」
「フン、このくらいたいした事ではないわ」
「うん、いつもどおりだね。でもあんまりモクバくんを心配させないでね」
確かに海馬くんの口調はいつもどおりだったし瞳は鋭く力強かったけれど、少し痩せたなって思った。まぁもともと痩せてる人だけどね。でも、なんかね。

僕が何か当たり障りの無い話題を探してベットサイドのテーブルを見るとチェス盤が置いてある。眠る前の暇つぶしでもやってたのかな?盤上は勝負の途中のように見えた。

「1927年、カパブランカがアリョーヒンに敗れた時の棋譜だ」
唐突に海馬くんが言った。僕の視線の先を読んだんだろう。
「不敗の王カパブランカが敗れた歴史的事件であり、名勝負と言われるもののひとつだ。だが、その後何度もカパブランカが再戦を望んだにもかかわらず、アリョーヒンはあらゆる手を使って彼の挑戦を回避し、格下のみと戦ってチャンピオンのまま生涯を終えた。盤上の詩人と讃えられるアリョーヒンだが、その事は彼の汚点として今も語りつがれている。オレにはわからん。最高の相手が目の前に居ながら何故勝負しないでいられるのか」
相変わらずだなぁと僕は感心した。
お構いなしに海馬くんは続ける。
「名勝負というものは類い稀なるプレイヤーが対峙しなければ生まれない。オレがアカデミアを創ったのは、そんなプレイヤーをひとりでも多く育て、M&Wに数々の名勝負を残したいと思ったからだ」

ああ。この話の飛びっぷり、空気読まないっぷり、デュエル馬鹿っぷりったら!
いつも海馬くんは相手の事なんかそっちのけで勝手に自分の話を進める。でも、それでこそ海馬くんだ。
その変わらなさが嬉しくて、一応話を合わせなきゃと思いつつ僕は言った。
「じゃあ海馬くんの思うデュエルの名勝負ってどんなの?」
「フン、人に問う前に自分で考えろ。おまえにとっての名勝負とは?」

そう言われた時、一瞬で僕の脳裏に浮かんだ光景。
暗い石造りの壁、文字と紋章の刻まれた扉、あの時僕らは全力で闘い、そして僕は勝った。
でも、あれを名勝負と言えるほど僕はうぬぼれ屋じゃない。

「わからないよ。名勝負ってのは後々まで人の記憶に残る勝負って事でしょう? 僕にとっては忘れられないデュエルでもそれが名勝負かどうかは後の人が決める事だと思う」
「常識的すぎてつまらん答えだな」
そっぽを向いた海馬くんにちょっと腹が立って僕は言った。
「じゃあ、君にとっての名勝負は昔君がもうひとりのボクとしたデュエルなのかい?」

海馬くんは窓の方を見たまま動かなかった。降るような蝉の声。ああ、夏ももう終わりだ。
蝉の声に混じって海馬くんの声が聞こえた。
「オレは自分の負けたデュエルを名勝負などとは認めん。だが…あの先がもしあったのなら…名勝負も生まれたかもしれんな」

胸をつくこの痛み。
そうだ、僕たちは同じように忘れられないんだ彼の事が。
今はさすがに若い時のように大会に出る事は無くなったけれど、決闘者である事をやめたわけじゃない。
あれから僕たちは何度となくいろいろな相手と闘って数々の戦績を残してきた。その闘いのうちのいくつかを名勝負と呼ぶ人もきっと居るんだろう。
でも海馬くんにとっては、僕にとっては、もう一度闘いたいと思う相手は彼しか居ない。
闇の番人、古代の王、伝説の決闘王、今はもういない僕の大切な大切な半身。

あれは彼との最初で最後の闘いだった。
今思えば彼とのデュエルは特別だった。興奮して高揚して自分が今までの自分じゃないみたいに感じ、勝っても負けても、自分がこれから遥かな先の道に進んでゆけるんだと信じられるような気がした。
あれがよく海馬くんや彼が言っていた「未来へのロード」?
あの時、僕にも見えたんだ。確かに。
対峙する者にそんな気持ちを抱かせてくれる彼は、やはり類い稀な決闘者だった。

今になって、僕はひとりの決闘者として思う。
使命やら運命やら役目やら、そんな面倒なものすべてとっぱらって、彼ともう一度闘いたかったと。
ああ、そうだね…あの先が、もし、あったのなら…

「海馬くんが羨ましいよ。君は彼と4回も闘ったじゃない」
「フン、オレは負けたがな。貴様は勝った」
その後も海馬くんは一度も僕の方を見なかった。

「決めた!僕は来週のアカデミア創立記念祝典の記念デュエルに出るよ。君の代理でね」
病室のドアノブに手を伸ばしながら僕は言った。
「モクバくんに頼まれた時は気が進まなかったんだけど、今決めた。出るよ。そして、久しぶりに彼のデッキで闘おうと思う」
海馬くんが振り向いた気配がした。背中に痛いほど彼の視線を感じる。
「オレが出る!モクバの奴め余計な事を!」
本気で怒っているみたいだな。でも、その声はさっきまでより数段力強い。

「じゃあ君もおいでよ。名勝負を見せてあげるから。早く病気なんて直してさ」
そう言って僕は病室を後にした。

病院を出るともう夕暮れだった。
最近とみに日が短くなってきたのを感じる。来た時と同じように蝉の声を聞きながら坂道を下ると、遠くで蜩が鳴き始めた。
夏の盛りの声と夏の終わりの声が混じり合い、それはまるで今の僕の心の中の音を聞くようだった。
僕達の夏はもう終わってしまったのかもしれない。でも、僕の中にはまだ夏の声が聞こえている。まだ終わりじゃないと。僕にもまだ出来る事があると。
もうひとりのボクのような闘いはできないけれど、僕と対峙した誰かがすこしでも先へ進む事が出来るといい。
彼と闘えた僕の幸運を、喜びを、バトンのように次の世代に渡せたらいい。

その声を聞きながら、僕はもう少し歩き続けよう。
もうひとりのボクがあの時指し示してくれた道の上を。


(了)20120824人生の夏の終わりに差しかかろうという年代の(表)遊戯さんと海馬さん。王が還った後も遊戯さんにはデュエリストとして歩み続けて欲しいなぁと思います。