Bloody Eyes


昼の船が空を渡り、ケプリはラーに、そしてアトゥムに。
今、聖なるナイルに陽が沈もうとしている。小高い丘の上から見える大地は隅々まで紅く染まっていた。

「王よ。もうすぐ城壁が見えます。民達も早く戦勝報告を知りたい事でしょう。 
何故こんなところで立ち止まられるのですか?」

馬上の王に向かって傍らの副将が尋ねた。
おりしも隣国との戦を終えて帰還する途中、兵達は皆疲れきり、早く自国の門をくぐりたい事だろう。
だが、戦に赴く時は誰よりも速く馬を駆け、勇猛果敢で名高いこの王は不思議と帰路になると馬の歩を緩める癖がある。そして今、王は丘の上でじっと沈みゆく陽を見つめて動かなかった。
たとえ帰路であっても、王を置いて軍勢が動くわけにはいかない。
大エジプト精鋭三万の兵が王にならって静かに歩みを止めた。

現王のその長身は馬上に在るとなお高く、瞳は兜に隠れて見えない。
この王は正四角錐の神器を持つ。
それは先王から譲り受けた王の証。夕陽に照り映えて、神器の中央の瞳は紅く輝いていた。

「忘れられぬのは未練だと思っていたが…」

「は?何をでございますか?」

王の漏らした言葉に副将は思わず聞き返した。

「フン、聞くな。単なる独り言だ」
そう言って皮肉に笑うと王はようやく愛馬の首をまわした。
夕陽を背に受け、動き出した王と軍勢もまた紅く輝く。
自国の大地は未だ先の闘いの爪痕を残していたが、少しずつ、そして着実に復興の兆しが見えてきていた。
今、戦を終えて家族のもとへ帰る兵達の目に等しく希望の光があるのと同じように。

馬の背に揺られながらセト王は思った。
今の俺は血まみれだ。そしてそれは望んでそうなった自分の姿だ。忘れられぬのは未練、自分の弱さだと思って封印してきたが、それは違う。

「忘れないのは俺の勝手だ」

兵達と同じく戦の血にまみれた姿のままで。忘れられない紅い瞳に似た夕陽の中で。
セト王は誰にともなく言った。瞳に紅い光を宿しながら。

「おまえを忘れないのは俺の勝手だ」


(了)20120316